視界ゼロの海――見えない暗闇の中にたたずむインフラ
青く澄み切った美しい海。
私たちが観光地や写真集などで目にする光景は、海が持つ一面に過ぎません。生活や経済活動、物資の流通を足元から支えている港湾施設や桟橋。その周囲に広がる水中環境は、多くの場合、強い濁りと暗闇に包まれています。
港湾構造物の多くは、海中に打ち込まれた大量の鋼管杭や、頑丈なコンクリート護岸、海底に敷き詰められた沈設ブロックなどによって構築されています。これらは24時間365日、波浪や潮流、海水に含まれる塩分などの影響を受け続けています。そのため、時間の経過とともに腐食やひび割れなどの劣化が進行する可能性があります。構造物の腐食やひび割れ、内部の空洞化、海底の洗掘(波や流れによって砂泥が削り取られる現象)などを早期に発見し、適切な補修につなげることは、港湾の安全を維持する上で欠かせません。
しかし、現場で調査員や技術者を待ち受けている最大の障壁、それが「水中の視界不良(濁水)」です。
何も見えない、眼前数センチメートルすら視認できない濁った海の底で、私たちは一体どのようにして構造物の健全性を確かめ、その状態を「見る」のでしょうか。
その手がかりとなるのが、長年の経験を積んだ潜水士が行う「手で触って確かめる潜水調査」と、デジタル映像技術による「機械で鮮明な映像を映し出す技術」を組み合わせるという考え方です。
港湾調査の前に立ちふさがる「濁り」の壁
水中調査における「濁り」は、単に「見えにくい」というレベルの問題にとどまらず、調査の精度や作業時間、安全性に大きな影響を及ぼす課題です。
海域や季節によっては、海水温の上昇などに伴ってプランクトンが増加し、水中の透明度が低下することがあります。水中ライトを照射しても、光が水中の浮遊物によって散乱し、視界が白く霞むことがあります。また、大雨や台風の後は、河川から膨大な量の土砂や泥が港湾内に流れ込みます。海底に堆積した泥粒子は非常に細かく、潮の流れやダイバーの微小な動作、水中ドローンの推進器(プロペラ)の水流によって容易に巻き上がり、周囲を一瞬にして視界ゼロの暗闇へと変えてしまう可能性もあります。
国土交通省が令和8年度交通運輸技術開発推進制度(マッチング推進型)の研究テーマとして示した「港湾工事における潜水作業の生産性・安全性向上に向けた水中部の簡易な状況把握に係る技術開発」では、港湾工事の水中部を担う潜水士の不足が喫緊の課題として挙げられています。あわせて、潜水作業では事前に写真などで現場の状況を共有することが重要である一方、透明度の低い海域では水中撮影ができず口頭による説明になるため、正確な状況伝達や指示が難しいことも課題とされています。そのうえで、透明度の低い海域でも水中部の状況を容易に把握できる、潜水士が手軽に扱える情報共有ツールの開発が求められています。
従来の調査法では、このような強い濁りが発生した場合、「水が澄む季節やタイミングまで作業を待機する」か「真っ暗な水中で途方もない時間をかけて手探りの作業を続ける」しかありませんでした。しかし、高度経済成長期に整備されたインフラが一斉に老朽化を迎えている現代において、そのようなタイムロスやコストの膨張を受け入れる余裕はありません。
「見えない現場」でいかにして正確な情報を集め、構造物の状態を捉えるか。そこで鍵になるのが、人の感覚と機械を組み合わせるという発想です。
五感と経験で挑む――「手で触って確かめる」潜水調査の真価
どれほどテクノロジーが進化しようとも、水中調査の現場には機械に置き換えることが難しい存在があります。それが、高度な専門技術と経験を備えた「潜水士」です。
潜水士は、視界が完全に遮られた濁水環境においても、自らの身体と感覚を駆使して構造物の状態を確認します。文字通り「手で触って確かめる」この触診調査には、映像による確認だけでは得にくい強みがあります。
1. 指先が感知するミクロな異変
熟練の潜水士の手は、感度の高い触覚センサーのように働きます。コンクリートの表面にそっと触れ、丁寧になぞることで、視界が悪い中でも表面の凹凸やひび割れ(クラック)の有無、段差の状態などを確かめます。鉄筋の腐食に伴う表面の膨らみに手で気づくこともありますが、内部の空洞化や「浮き」の有無は、打音検査などと組み合わせて確認します。鋼構造物の場合であれば、付着生物の陰に隠れた錆の発生状況や、ボルトの緩み、表面の荒れ具合などを指先の感覚で確かめていきます。鋼材の肉厚の減少量については、超音波厚さ計などの計測機器による測定と組み合わせて評価します。
2. 複雑に入り組んだ構造物へのアクセス
ある桟橋の脚部や、複雑に組み上げられた消波ブロックの隙間、沈没物や構造物の裏側など、機材を差し込むことが困難な狭小空間であっても、潜水士であれば柔軟に体勢を変えながら進入し、直接手で触れて状況を確認することができます。
3. 直感と長年の経験に基づく判断力
「この手触りは単なる表面の汚れではなく、内部コンクリートの劣化に伴う剥離の前兆の可能性が高い」「この歪みは波の衝撃によるものではなく、構造的な荷重がかかっている証拠になり得る」——こうした現場での判断は、長年にわたり水中調査に携わってきた潜水士の経験と知識に支えられています。
しかし、この優れた潜水調査にも固有の制限が存在します。人間が一度の潜水作業で触れて確認できる範囲には物理的な限界があり、広大な構造物全体を一度に俯瞰することは困難です。また、過酷な水圧や水温、暗闇という環境下では、潜水士の体力・精神的負荷を考慮し、安全面から潜水時間が厳しく制限されます。
この「人間の物理的限界」を補い、広範な水中の様子を映像として記録し、関係者で共有するのが「機械の力」です。
濁った水中の情報を捉える「鮮明化技術」と水中ドローン
濁りによる見えにくさを画像処理の力で補い、水中の様子をできるだけ鮮明に映し出す――それが「機械で鮮明な映像を映し出す技術」です。近年、画像処理技術や小型潜水ロボットの進化により、濁水環境下における水中可視化技術は着実に進歩しています。
濁水対応リアルタイム鮮明化カメラ
従来の水中カメラでは、水中を漂う浮遊粒子にレンズのピントや光が奪われ、画面全体が真っ白く霞む「浮遊物ノイズ」が発生してしまいました。
これに対し、「濁水対応リアルタイム鮮明化カメラ」は、映像に含まれる濁りや光の散乱による影響を画像処理によって補正し、対象物のコントラストや輪郭を見やすくすることができます。濁りの程度や撮影条件によって効果は異なりますが、従来のカメラでは確認が難しかった水中構造物の状態を、より効率的に把握できる可能性があります。
プランクトンや浮遊土砂などによって濁りが発生した水中環境でも、濁水対応カメラによる画像処理を活用することで、構造物の状態をより見やすい映像として確認できる可能性があります。実際の視認性は、濁りの程度や撮影条件によって異なります。
潜水士による潜水が難しい大水深や、安全上のリスクが高い危険水域において力を発揮するのが、遠隔操作型の水中ドローン(ROV)です。コンパクトで機動性に優れた水中ドローンに濁水対応カメラを搭載することで、水中の広範囲を移動しながら撮影することができます。人が直接近づくことが難しい場所や、海底付近の広い範囲についても、映像データとして記録することが可能です。
人の「手触り」×機械の「映像・データ」が拓くこれからの港湾調査
「手で触って確かめる潜水士」と、「機械で鮮明な映像を映し出す最新技術」。この2つは対立する技術ではなく、互いの得意分野を補い合う関係にあります。
双方を組み合わせる「ハイブリッド調査」を導入することで、より精度の高い、効率的な港湾維持管理につながります。
濁水対応リアルタイム鮮明化カメラ
【ステップ1:機械による広範囲の可視化とスクリーニング】はじめに、濁水対応カメラを搭載した水中ドローンなどを投入し、ある港湾施設全体の広範な映像データを取得します。リアルタイムで鮮明化された映像を通じて、構造物全体の歪みや大きな損傷箇所の候補、海底の状況をモニター上で確認し、「どこに異常の兆候があるか」を事前に洗い出します。
【ステップ2:潜水士によるピンポイントの精密触診】
機械の映像で洗い出した要調査ポイントへ、潜水士が正確にアプローチします。暗闇の中で闇雲に探し回る必要がないため、潜水士は確認すべき箇所へまっすぐ向かうことができます。そして自らの「手」で直接触れ、ひび割れの幅や段差、表面の凹凸、付着生物の下に隠れた状態など、映像だけでは判別しにくい情報を確かめます。内部の空洞化や「浮き」は打音検査、鋼材の肉厚は超音波厚さ計などの計測と組み合わせて確認します。
【ステップ3:映像記録と触診結果の統合】
潜水士が確認した触診結果と、機械が捉えた映像記録・位置情報を統合します。これにより、「どこが、どのような状態で、どれくらい傷んでいるか」が整理され、信頼性を高めた点検報告書につながります。
視界不良を超えて、港の安全と暮らしを守り続ける
私たちが日常で利用する商品や資源の多くは、海を超えて港湾施設から運ばれてきます。その安全な海上物流や地域の防災を陰で支えているのは、水面下でひっそりと佇む無数の構造物たちです。
「濁って何も見えない海の底を、どうやって『見る』のか」
その答えは、テクノロジーの力で「見えない水中をできるだけ鮮明に描き出し」、長年培われてきた潜水士の技術で「手で触って確かめる」という、人と機械の組み合わせにありました。
「海が濁っているから調査が難しい」という課題に対して、私たちは新たな選択肢を手にしています。
濁った水中でも、状況に応じた技術を活用し、構造物の状態をより正確に把握すること。熟練の技術と新たな知見を融合させながら、私たちはこれからも、見えない海の底から社会の安全と人々の暮らしを支えていきます。
濁水カメラにご興味のある方は、当社でも取り扱っております。導入やご相談など、お気軽にお問い合わせください。
国土交通省 公式サイト
「港湾工事における潜水作業の生産性・安全性向上に向けた水中部の簡易な状況把握に係る技術開発」(令和8年度交通運輸技術開発推進制度) https://www.mlit.go.jp/common/001994418.pdf
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